LOGIN翌朝、沙耶は目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。
ほとんど眠れなかったはずなのに、体だけは長年の習慣を覚えているらしい。カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込み、ベッドの反対側には誰もいない。いつもなら遼一が使っている枕が、昨夜から同じ形のまま残っていた。
昨夜、自分が寝室へ入ったあと、遼一は言われたとおり客用の部屋で眠ったらしい。
沙耶はしばらく天井を見つめ、それから左手を持ち上げた。
薬指には、まだ結婚指輪がある。
昨日は関節に引っかかって外せなかった。石けんを使えば簡単に抜けるだろうが、今すぐそこまでしたいとは思えなかった。
外せないからつけているのか。
まだ外したくないのか。
自分でも分からない。
ベッドを出て洗面所へ向かい、顔を洗った。鏡に映った自分は、想像していたほどひどい顔ではなかった。ただ目の周りが少し腫れていて、それが昨夜泣いた証拠のように残っている。
スマートフォンの待ち受けを変えようと思っていたことを思い出した。
画面を開く。
七年前の結婚式。
白いドレス姿の沙耶と、まだ今ほど肩書きを背負っていなかった遼一が並んで笑っている。
遼一は今より少し頬が丸く、髪も短い。こんなに無邪気に笑う人だったのかと、今さら他人の写真を見るような気持ちになった。
沙耶は画像設定を開いたものの、指を止めた。
消す必要はない。
待ち受けから外せばいいだけだ。
その程度のことなのに、決定ボタンを押すまで時間がかかった。
画面が無地の時計表示に変わる。
たったそれだけで、胸の中が少し寒くなった。
七年間は、消えない。
離婚するにしても、昨日までの人生がなかったことになるわけではない。
むしろ苦しいのは、全部が不幸だったわけではないからだ。
本当に嫌いな男なら、こんなに迷う必要などなかった。
沙耶は寝室を出た。
廊下の先から、物音が聞こえる。
遼一がもう起きているらしい。
リビングへ入ると、彼はワイシャツ姿でキッチンに立っていた。コーヒーメーカーの前で操作方法が分からないらしく、ふたを開けたり閉めたりしている。
その姿があまりにも見慣れなくて、沙耶は足を止めた。
遼一は気配に気づいて振り返る。
「おはよう」
「……おはよう」
夫婦とは妙なものだ。
離婚を切り出した翌朝でも、挨拶はできる。
むしろ七年間、毎朝繰り返してきた言葉だからこそ、こんな日にも口から自然に出てしまう。
遼一はコーヒーメーカーを指した。
「これ、どうやるんだっけ」
沙耶は一瞬、答えそうになった。
そこへ豆を入れて、水はこの線まで。
いつもなら何も考えず教えていただろう。
しかし今朝は、言葉が喉元で止まった。
「説明書、下の引き出しに入ってるわ」
遼一がわずかに眉を上げた。
「いや、そうじゃなくて、沙耶がやってくれれば――」
途中で自分でも気づいたらしい。
言葉が止まる。
沙耶は責めなかった。
遼一も気まずそうに目を逸らし、引き出しを開けた。
「悪い。癖で」
「七年だもの。そうなるわよ」
嫌味のつもりはなかった。
けれど遼一にはそう聞こえたのかもしれない。
短く「そうだな」と答えた。
沙耶は冷蔵庫を開け、昨夜の料理を取り出した。
赤ワイン煮は捨てる気になれなかった。食材にも罪はないし、何より時間をかけて作ったものだ。
朝から重いだろうと思いながら、少量を鍋へ移す。
遼一が後ろから言った。
「それ、昨日の?」
「そう」
「俺、食べてもいい?」
沙耶の手が止まった。
昨日は「食事はいい」と言った男が、翌朝になって食べたいと言う。
以前なら笑って出しただろう。
今は、それがひどく遠い習慣に思えた。
「好きにすれば」
遼一は戸惑ったようだった。
「沙耶」
「何?」
「昨日のこと、すぐに答えを出せとは言わない」
沙耶は鍋に火をつけたまま振り返らなかった。
「当然でしょう」
「分かってる。ただ、俺としてはできるだけ揉めずに進めたいと思ってる」
その言い方に、胸の奥で何かが引っかかった。
揉めずに。
またその言葉だ。
自分が半年間不倫をして、愛人と生きたいから離婚してほしいと言い出したのに、終わり方だけは穏便でありたい。
遼一は昔から争いが嫌いだった。
優しいのだと思っていた。
けれど争いを避けることと、責任を引き受けることは同じではない。
「遼一。あなたは私が怒るのが嫌なの?」
「誰だって嫌だろ」
「違うの。私が怒ることそのものが嫌なのか、自分が悪い人になったみたいで居心地が悪いのか、どっち?」
遼一は返事に詰まった。
沙耶は火を弱め、木べらで鍋の底をゆっくり混ぜた。
「ごめん。朝からする話じゃなかったわ」
「いや」
遼一は椅子へ座った。
「俺も、うまく言えないんだよ。沙耶を傷つけたくなかったのは本当だ。でも、傷つけない方法なんてなかった」
「不倫をしないという方法はあったでしょう」
「それはそうだけど」
「それ以外にもあったわ。私たちがうまくいってないと思った時点で話すこともできた。離婚を考え始めた二か月前に言うこともできた。葉山さんと関係を持つ前に別れることだってできた」
言えば言うほど、遼一が追い詰められていくのは分かった。
それでも、沙耶は止めたくなかった。
昨夜までは、自分が悪かったところを必死に探していた。
会話が減ったから。
夫婦らしさがなくなったから。
子どもができなかったから。
仕事の話ばかりになったから。
けれど、それらは夫婦の問題ではあっても、不倫の責任を半分ずつにできる理由にはならない。
「私たちの結婚がうまくいかなくなった責任は、たぶん私にもある。でも、あなたが不倫した責任まで私に半分持たせないで」
遼一は黙った。
その沈黙が、珍しく言い逃れではないように見えた。
沙耶は火を止めた。
鍋から立ち上る匂いが、昨夜と同じなのに、まるで違う食べ物のようだった。
「食べるなら、自分でよそって」
「分かった」
「私、少し出るから」
「どこへ?」
その問いに、沙耶は反射的に答えそうになって、それから笑いそうになった。
いつもなら行き先を伝える。
何時に帰るかも。
遼一の予定に合わせて買い物も済ませ、必要なら義母の家へ寄る。
けれど今、自分はそこまで説明する必要があるのだろうか。
「ちょっと歩いてくる」
「朝飯は?」
「いらない」
沙耶は上着を羽織り、玄関へ向かった。
淡い灰色のスリッパが、昨夜莉奈の脱いだ位置から少しずれている。
沙耶はそれを見下ろしてから、棚へ戻さなかった。
玄関の隅にそのまま置いた。
今は触りたくなかった。
外へ出ると、十月の朝の空気が思ったより冷たかった。
住宅街はまだ静かで、犬の散歩をする老人や、出勤途中らしい会社員がまばらに歩いている。
沙耶は行き先も決めずに歩いた。
十分ほど進むと、小さな公園が見えてきた。
その手前に古いパン屋がある。
まだ開店したばかりらしく、店先から焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
その匂いを嗅いだ瞬間、七年前の記憶が不意に蘇った。
結婚して最初に住んだのは、今の高層マンションではなかった。
駅から十五分ほど歩いた築二十年の賃貸マンション。
リビングは今の半分ほどしかなく、キッチンも二人並べば肩がぶつかるほど狭かった。
けれど、あの頃の遼一はよく料理をした。
得意だったわけではない。
むしろ酷かった。
新婚三日目の朝には、目玉焼きを焦がした。
「なんで裏まで黒いの?」
笑いながら聞く沙耶に、遼一は本気で困った顔をした。
「弱火って、どのくらいが弱火なんだよ。火が消えそうだから心配になって強くした」
「それは弱火の意味がないでしょう」
「食える?」
「たぶん」
「たぶんって言うなよ。新婚三日目だぞ」
そんな馬鹿な会話をしながら、二人で焦げた目玉焼きを食べた。
遼一は当時、まだ営業部の主任だった。
神崎家の長男ではあったものの、会社では父親から特別扱いされることを嫌い、朝早くから夜遅くまで働いていた。
沙耶もホテルグループの広報部に勤めていた。
二人とも忙しく、休日が重なることも少なかった。
それでも時間を作った。
遼一は仕事帰りに沙耶の会社の近くまで来て、二人で遅い夕食を食べた。沙耶が疲れていれば、駅前のコンビニでおにぎりを買って公園のベンチで食べたこともある。
「俺さ、いつか親父の会社を継ぐかもしれない」
結婚して一年ほど経った頃、遼一はそう話した。
缶コーヒーを片手に、ひどく不安そうだった。
「継ぎたいの?」
沙耶が聞くと、遼一は少し考えてから答えた。
「分からない。継ぐべきだとは思ってる。でも、俺が継いで会社を駄目にしたら、社員の生活まで巻き込むだろ。それが怖い」
今の遼一からは想像できないほど弱気な顔だった。
沙耶は覚えている。
あのとき、自分は何と答えたのか。
「じゃあ、社長にならないために逃げるんじゃなくて、社長になっても困らないくらい勉強したら?」
遼一は目を丸くした。
「沙耶って、たまに厳しいよな」
「優しく『大丈夫よ』って言ってほしかった?」
「ちょっとは」
「じゃあ追加する。あなたなら大丈夫。でも、勉強は必要」
遼一は笑った。
「結局厳しいじゃん」
その夜から、遼一は経営の勉強を始めた。
沙耶も付き合った。
財務の本を買い、分からないところを一緒に調べた。
遼一が作ったプレゼン資料を見て、「これじゃ社員はついてこない」と遠慮なく言ったこともある。
遼一は腹を立てた。
二人で喧嘩した。
でも翌朝には、直した資料を沙耶へ見せてきた。
「これなら?」
「昨日より百倍いい」
「最初からそう言えよ」
「最初は百倍悪かったから無理」
また喧嘩になり、最後には二人で笑った。
沙耶は公園のベンチに腰を下ろした。
秋の風が、木の葉を細かく揺らしている。
思い出せば、幸せな記憶はいくらでもあった。
それが苦しかった。
遼一は昔から冷たい男だったわけではない。
沙耶を利用するためだけに結婚したわけでもない。
愛していた。
少なくとも、そう信じられる時間が確かにあった。
結婚二年目、沙耶が仕事で大きな失敗をしたことがある。
担当していたホテルの広告企画で、外部会社との連携ミスが起こり、公開直前にキャンペーンが延期になった。
直接の原因は沙耶ではなかった。
それでも担当者として責任を感じ、帰宅してから泣いた。
遼一は何も言わず、コンビニへ出かけた。
戻ってきた手には、プリンが二つあった。
「何これ」
「甘いもの食えば多少マシになるかと思って」
「子どもじゃないんだから」
「じゃあ俺が二個食う」
「一個ちょうだい」
「ほら。効いただろ」
そう言って笑った。
その夜、遼一は自分の仕事の話を一切しなかった。
ただ沙耶の話を聞いた。
「辞めたいなら辞めてもいい。でも、悔しくて辞めるなら、明日もう一回考えたほうがいい。沙耶、今めちゃくちゃ怒ってるから」
「怒ってない。落ち込んでるの」
「怒ってるって。自分に」
図星だった。
翌日、沙耶は会社へ行った。
逃げなかった。
後始末をし、キャンペーンを立て直した。
あの頃の遼一は、自分が折れそうなとき、ちゃんと横にいてくれた。
だから沙耶も返したかった。
彼が苦しいときは支えようと思った。
結婚三年目。
遼一の父親が倒れ、会社の後継問題が一気に現実になった。
遼一は営業から経営企画へ移り、責任が増えた。
沙耶もその頃、会社で管理職候補として名前が挙がっていた。
仕事は面白かった。
自分の企画が実際にホテルの売上につながることも増えていた。
それでも、遼一が夜中の三時まで資料と格闘している姿を見ているうちに、沙耶は退職を考えるようになった。
最初は遼一が反対した。
「辞める必要ないだろ。沙耶、仕事好きじゃん」
「好きよ。でも、今のままだと二人とも潰れる」
「家事なら外注すればいい」
「それだけじゃないの。あなた、今まともに眠れてないでしょう」
「だからって沙耶が辞めるのは違う」
「私が決めることよ」
あのとき、遼一は三日ほど口をきかなかった。
沙耶が自分のために仕事を辞めることを、負担に感じていたのだと思う。
結局、沙耶は半年後に退職した。
送別会の夜、酔って帰宅すると、遼一が玄関で待っていた。
「本当に後悔しない?」
何度目か分からない質問だった。
沙耶は笑った。
「後悔したら、そのときまた働く」
「そんな簡単に戻れるか?」
「戻ってみせるわよ」
遼一はしばらく沙耶を見つめ、それから抱きしめた。
「ありがとう」
耳元で、そう言った。
沙耶は今でも覚えている。
あの「ありがとう」は、本物だった。
少なくとも、あの瞬間だけは。
だからこそ七年後、退職から時間が経ち、自分の仕事を持たなくなり、遼一の仕事を支えることが当たり前になった今、その感謝がいつ消えたのかを考えてしまう。
いや、消えたのではないのかもしれない。
感謝し続けるには、人は日常へ慣れすぎる。
最初はありがたかったことも、毎日続けば風景になる。
そして風景になったものは、なくなって初めて見える。
沙耶は膝の上で両手を組んだ。
そんなふうに遼一を理解しようとする自分が、少し嫌だった。
裏切られた側まで相手の事情を考えてやる必要などない。
それでも七年間一緒にいた。
どんなに怒っても、その事実は急には消えてくれない。
スマートフォンが震えた。
画面には「遼一」と表示されている。
沙耶は数秒迷ってから出た。
「もしもし」
『どこまで行ったんだ?』
「公園」
『近所の?』
「そう」
『……朝飯、食べないなら俺が全部食べていい?』
あまりにも間の抜けた質問で、沙耶は一瞬言葉を失った。
「全部って、赤ワイン煮?」
『うん』
「朝から?」
『腹減ったから』
「好きにして」
『分かった』
切れるかと思ったが、遼一は黙ったままだった。
「まだ何かある?」
『昨日、俺が言ったことだけど』
沙耶の体が少し硬くなる。
『夫婦として終わってたって言っただろ』
「覚えてる」
『あれは……言いすぎた』
沙耶は何も答えなかった。
遼一は言葉を探すように続けた。
『全部が駄目だったわけじゃない。そんなことは俺も分かってる。結婚したことまで後悔してるわけでもない』
沙耶は目を閉じた。
聞きたかった言葉だったのかもしれない。
昨夜なら。
けれど今聞くと、胸の傷へ薄い布をかぶせられたようで、かえって痛みの形が分かってしまう。
「じゃあ、どうして?」
電話の向こうで、遼一が黙った。
「幸せだった時期もあったんでしょう。私のことを好きだった時期もあった。だったら、どうして私に何も言わないまま、そこから別の人のところへ行ったの?」
『……分からない』
「分からない?」
『自分でも、いつからこうなったのか分からないんだよ』
初めて、遼一の声に苛立ちではなく迷いが混じった。
『莉奈といると楽だった。会社のことも分かってくれるし、俺を社長として見てくれる。家では、なんていうか……』
「家では?」
『沙耶には、何でも見透かされてる気がした』
思いがけない言葉だった。
沙耶は眉を寄せる。
「それが嫌だったの?」
『たぶん』
「私があなたを知っていることが?」
『弱いところまで全部知ってるだろ。昔の失敗も、親父に認められたくて必死だったことも、社長になるのが怖かったことも。莉奈は、今の俺を見てくれるんだ』
沙耶はすぐに言葉が出なかった。
腹が立つより先に、悲しくなった。
自分は夫の弱さを知っているからこそ支えられると思っていた。
遼一にとっては、それがいつの間にか重荷になっていた。
「それ、私に言ってほしかった」
『……言えるかよ』
「どうして?」
『情けないだろ。妻に、俺を知られすぎてるのがしんどいなんて』
沙耶は小さく息を吐いた。
「情けなくても言ってよ。私は妻だったんでしょう」
電話の向こうで、遼一は黙った。
「完璧な夫でいてほしいなんて、一度も言ったことないわ。社長になってからあなたが失敗したときも、格好悪いなんて思わなかった。なのに、あなたは私に弱いところを知られていること自体が嫌になったのね」
『嫌っていうか……』
「もういい」
沙耶は遮った。
「今はこれ以上聞いても、たぶんお互いにうまく話せない」
『沙耶』
「遼一。私、今日まで本当に、あなたとの結婚が全部駄目だったとは思ってなかった。それは今も同じよ」
言いながら、涙が出そうになった。
それでも声は崩さなかった。
「幸せだった。少なくとも私は幸せだった時期がある。だから苦しいの」
遼一は何も言わなかった。
「最初から嫌いな人だったなら、こんなに傷つかないもの」
しばらくして、遼一が低く答えた。
『……そうだな』
その一言が、なぜか昔の遼一に少しだけ似ていた。
沙耶は通話を切った。
公園の向こうで、若い夫婦らしい二人が小さな子どもの手を引いて歩いている。
沙耶はその姿をしばらく眺めた。
羨ましいとは思わなかった。
ただ、自分にも未来があったはずだと思った。
遼一と一緒に年を取り、仕事が落ち着いたら旅行をして、子どもができなければ二人で好きなように生きようと話したこともある。
その未来を、自分はまだどこかで信じていた。
遼一は先に降りていた。
そのことを昨日初めて知らされた。
沙耶はベンチから立ち上がった。
家へ戻る道を歩きながら、ひとつ決めた。
離婚するかどうかは、感情だけで決めない。
七年間が幸せだったから残るのでもなく、裏切られたから勢いで出ていくのでもない。
これから先、自分がこの人ともう一度同じ家で暮らしたいと思えるのか。
そこだけは、誰にも決めさせない。
家へ戻ると、遼一は食卓に座っていた。
赤ワイン煮の鍋は、見事に空になっている。
「全部食べたの?」
「食べていいって言っただろ」
「朝から四人分近くあったのに」
「思ったより腹減ってた」
沙耶は呆れて、ほんの少しだけ笑ってしまった。
遼一もつられて口元を緩める。
その瞬間だけ、七年前の狭い部屋へ戻ったような気がした。
けれど次の瞬間、テーブルの上に置かれた遼一のスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前が見えた。
葉山莉奈。
沙耶の笑みは静かに消えた。
遼一もそれに気づいた。
二人の間に、現実が戻ってくる。
沙耶は目を逸らさずに言った。
「遼一。今日の夜、もう一度話しましょう」
「何を?」
「離婚について」
遼一の表情が変わった。
沙耶は続けた。
「今度は、あなたがどうしたいかじゃなくて、私がどうしたいかを考えて話すわ」
第25話 妻に頼らず仕事を回すために、会社を変えなければならなかった翌朝、遼一が出社すると、昨夜自分で追加した一枚の資料が机の上に残っていた。『この商品を、誰のどんな時間に置くのか』見出しだけなら、以前沙耶が作っていた資料とよく似ている。だが、中身はまだ半分しか埋まっていなかった。三十五歳から五十歳を中心とする既存顧客。仕事を終えて帰宅した夜。休日の朝。来客前。自分のために部屋を整えたいとき。贈答用なら、親しい相手の新居祝いや誕生日。いくつか書いてみたものの、どれもどこか商品企画書らしい言葉で、生活の匂いが薄い。遼一は椅子へ腰を下ろし、しばらくその一枚を見つめた。沙耶へ聞けば早い。その考えは昨夜すでに捨てた。ならば会社で作るしかない。問題は、誰に作らせるかではない。どうすれば今後も会社の中で考えられるようになるかだった。午前九時、遼一は秘書へ内線を入れた。「長谷川部長と商品企画の高田課長、それから営業から一人、EC担当から一人。十時に小会議室を押さえてくれ」『広告代理店も呼びますか?』「今日はいい。社内だけでやる」『承知しました』通話を切り、遼一は資料を閉じた。以前なら、各部署から上がってきた情報を自分がまとめ、最後に沙耶へ見せる。それで十分だと思っていた。会社の中で作れない部分を、家庭で補っていたのだ。しかも無料で。その状態を「自分は仕事ができる」と思っていた。認めたくないが、そこはもう認めるしかない。十時。小会議室に集まったのは、マーケティング部長の長谷川、商品企画課長の高田、法人営業の女性課長・野村、EC担当の三十代男性・石井だった。全員、急な招集に少し戸惑っている。遼一は昨夜作った一枚を配った。「今日は広告案を決める会議じゃない」長谷川が資料を見る。「これは?」「新
第24話 元妻がいなくなって初めて、会社の会議が噛み合わなくなった神崎ライフスタイルの新商品発表会まで、残り三週間。午前九時から始まった広告戦略会議は、一時間二十分を過ぎても結論が出ていなかった。遼一は会議室の正面で腕時計を確認し、目の前の資料をもう一度めくった。新商品は、ホテル客室や一般家庭向けに展開する高価格帯のルームフレグランスシリーズだった。香りそのものは悪くない。開発には一年近くかけている。容器のデザインにも金をかけた。大手百貨店二社との商談も進み、自社ECだけでなくホテルのアメニティ展開も視野に入れている。会社としては、今期後半の柱にしたい商品だった。だからこそ、広告で失敗するわけにはいかない。「もう一度整理しましょう」遼一が言うと、広告代理店の担当者がパソコンを操作した。大型モニターへ、三種類のキービジュアルが映る。一つ目は、若い女性モデルを全面に出した華やかな案。二つ目は、白を基調に商品だけを見せる高級感重視の案。三つ目は、ホテルの客室を背景にしたライフスタイル提案型。どれも悪くない。だが、どれも決め手がない。「葉山さんは一案目を推すんですよね」マーケティング部長の長谷川が確認すると、莉奈が頷いた。「はい。SNS広告まで考えるなら、一番止まってもらいやすいです。商品だけの静物だと、高級感は出ても拡散は弱いと思います」「でも既存顧客は四十代以上が中心だ」営業本部長が言う。「若い女性へ振りすぎると、今までのブランドイメージから浮かないか?」「だから今回は新規層を取りにいくんじゃないんですか?」莉奈はすぐに返した。「既存顧客だけ見ていたら市場は広がりません。二十代後半から三十代前半の女性を取るなら、今までと同じ見せ方では駄目だと思います」言っていることは間違っていない。遼一も、当初はその方向を支持していた。しか
第23話 私の企画が、七年ぶりに採用されたホテル・アステリアの改善案を正式に提出する日の朝、沙耶は目覚ましが鳴る十分前に目を覚ました。眠れなかったわけではない。むしろ前夜は珍しく早めに布団へ入った。それでも体のどこかが今日を意識していたらしく、目を開けた瞬間から頭の中に資料の構成が浮かんだ。由香の家へ来てから何度も使ったダイニングテーブルには、昨夜のうちにまとめておいた書類が置いてある。最終案は二十八ページ。最初に考えていたより、ずっと地味な内容になった。大規模改装はしない。若者向けへ一気にブランド転換もしない。新しいレストランを作るわけでも、有名人を呼ぶわけでもない。まず、今いる客を取りこぼさない。宴会、宿泊、レストランを別々のサービスとして売るのではなく、客がホテルを使う目的ごとに案内をつなぐ。法事。同窓会。家族の節目。親を連れた食事。地域へ戻ってきた人が、複数の用事を一か所で済ませられるようにする。そのうえで、現在の常連客から次の世代へ利用をつなげる。派手ではない。しかし今の沙耶には、それが一番アステリアに合っていると思えた。キッチンへ行くと、由香がすでにコーヒーを淹れていた。「おはよう。顔、固いよ」「そんなに?」「面接受けに行ったときより固い」沙耶は冷蔵庫からヨーグルトを出した。「今日は自分で考えたものを採るかどうか決められるから」「面接だって自分を採るか決められてたじゃん」「それとは違うよ」「何が?」沙耶は少し考えた。「面接のときは、私自身が評価されてる感じが強かった。でも今日は、私が考えたものが使えるかどうかを見られるでしょう。だから……」「自分と仕事を分けられる?」由香に先を言われた。沙耶は少し驚いて
第22話 「やっと仕事に戻ったんですね」久世蒼士へ渡す修正版の資料を仕上げたのは、日付が変わる少し前だった。沙耶は最後のページまで見直し、ファイル名をつけて保存した。『ホテル・アステリア現状分析_改訂版』いったん送信画面まで進み、そこで手を止める。今回は相川を通して久世ホールディングスへ送ることになっている。直接蒼士へ連絡するわけではない。それなのに、提出ボタンを押すだけで妙に緊張した。会議の最後に言われた言葉が残っている。――自分で出した結果まで、先回りして小さくする必要はないでしょう。資料を直すとき、その指摘を何度も思い出した。十一室の宿泊予約についても、以前なら「一件のみであり偶然の可能性も高い」と冒頭から予防線を張っていただろう。今回は違う。『試験運用一件目では、宴会付随の宿泊見込みが五室程度から十一室へ増加した。案内経路を整理したことで既存需要を取りこぼしにくくなる可能性が示された。ただし、現時点では一例のため継続検証が必要である』結果は結果として書く。そのうえで限界も書く。誇張もしない。縮めもしない。たったそれだけのことが、沙耶には思った以上に難しかった。「まだ送ってないの?」ソファでテレビを見ていた由香が、画面から目を離さずに言った。「今送る」「十五分前も聞いた」「最終確認してたの」「十二回目?」「今日は八回くらい」「改善したねえ」完全にからかわれている。沙耶は苦笑して送信した。「送った」「お疲れ」「……うん」「何、その顔。公開告白でもした?」「仕事の資料送っただけ」「じゃあ寝な」「そうする」そう言いながら、沙耶はすぐにはパソコンを閉じなかった。送った以上、もう自分の手から離れた。
第21話 七年ぶりに戻った業界で、私は彼と出会った久世ホールディングスとの打ち合わせを二日後に控えた夜、沙耶は資料の一ページ目を十二回目まで直していた。由香のダイニングテーブルにはノートパソコンとホテル・アステリアの資料が広がり、いつの間にか仕事用の場所として定着しつつある。最初は遠慮して毎晩片づけていたが、由香から「朝また全部出すなら端に寄せとけば」と言われて以来、食事のときだけ資料を重ねて椅子の横へ置くようになった。画面に表示されている一文は、前回から変わっていない。『ホテル・アステリアの問題は、魅力がないことではない。すでにある価値が、客の目的に沿ってつながっていないことである。』問題は、その次だった。十一室の宿泊予約が入った。宴会と宿泊の情報共有を変えたことで、少なくとも一件は取りこぼしを減らせた。レストラン利用者への聞き取りでは、若い世代がアステリアを嫌っているというより、「自分が使う場所として思いつかない」という反応が多かった。そこから、『設備別の販売から、利用目的別の提案へ』という方向性までは見えている。だが、それだけでホテルが立て直るとは言えない。「また消した」キッチンから由香の声が飛んできた。沙耶は驚いて振り返った。「見てたの?」「さっきからキーボードの音が、打つ、止まる、消す、打つ、止まる、消す、なの。聞いてるだけで分かる」「怖いな」「何に悩んでるの?」由香はマグカップを二つ持ってきて、一つを沙耶の横へ置いた。中身はコーヒーではなく、温かいほうじ茶だった。「ありがとう」「どういたしまして。それで?」沙耶は画面を見ながら答えた。「明後日の打ち合わせ、相手が大手だから」「久世なんとか?」「久世ホールディングス。ホテルだけじゃなくて、不動産もレストランもやってる。昔から業界では有名だった」「偉い人が来るんだ
第20話 ホテルが売っていたものを、お客様は欲しがっていなかった十一室の宿泊予約が入った翌日、沙耶は嬉しさをいったん脇へ置くことにした。数字が動いたのは事実だった。しかし、一件うまくいっただけで「改善策は成功です」と言ってしまえば、それまで何度も新しい施策に振り回されてきたアステリアの現場と同じことを繰り返す。なぜ十一室増えたのか。本当に共有方法を変えたことが理由なのか。もともと宿泊する予定だった人が、たまたまアステリアを選んだだけではないのか。確かめなければならなかった。午前中、沙耶は森川から同窓会幹事とのやり取りを見せてもらった。もちろん個人情報に触れない範囲だが、宿泊案内を送ったあとの反応は分かる。「最初は五室くらいって話だったんですよね?」沙耶が尋ねると、森川は頷いた。「幹事さんが把握してたのが五室です。でも案内を参加者全員に回してくれて、それを見た人から個別に連絡が来ました」「何が決め手だったか聞きました?」「二人だけですけど。片方は『宴会終わってそのまま部屋に上がれるなら楽だから』って。もう一人は『朝みんなで食べられるならこっちでいい』って」「料金は?」「安いとは言ってなかったです。駅前より少し高いですし」それは沙耶にとって重要だった。安くしたから取れた十一室ではない。利便性が伝わったから選ばれた可能性がある。「宴会会場と宿泊場所が同じこと自体に価値があるんですね」「まあ、飲む人には大きいでしょうね。駅前まで移動しなくて済むし」「でも、それって今まで積極的に案内してなかった?」森川が苦笑した。「聞かれたら答えてました」「聞かれたら」「はい」客が知らなければ、存在しないのと同じだった。沙耶はノートへ書き込む。『利便性はある。伝えていない。』それだけなら広告の問題にも見える。だが、







